歴史

上杉謙信は生涯無敗の戦の天才だったのはなぜなのか。軍神の戦術と戦略のなぞ

越後の龍・上杉謙信は、なぜあんなにも強かったのかを書いていきたいと思います。

 

生涯無敗の戦術家であり、軍神とまで言われたほどに強かったため、信長も信玄も戦を避けるほど、当時すでに恐れられていました。

 

その理由について、考えていきたいと思います。

 

こちらを読んでもらえれば、上杉謙信の強さの秘密がわかると思います。

 

はてな

・上杉謙信が軍神として恐れられた理由を知りたい

・上杉謙信の戦術について知りたい

・上杉謙信が戦略や戦術を練るためにしていたことは

 

上記のようなことについて疑問を持っている方には、おすすめの内容になっています。

私は、20年以上も戦国時代について勉強をしているので、かなり細かな視点でお伝えできるのではないかと思います。

 

今回参考にさせていただいた本ですが、

 

私もこの本と出会って上杉謙信に対する考え方がかなり変わりました。新しい視点で謙信の戦略や戦術を考えることができる良書です。

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上杉謙信は生涯無敗の戦の天才だったのはなぜなのか。

上杉謙信が軍神や毘沙門天と恐れられた理由とは

謙信が、戦上手というのは戦国当時から言われていることですが、常人離れしたところがありました。そこから、恐れられたり、理解出来ない怖さにつながったのではないかと思います。

 

謙信にはそんな逸話がたくさんあります。

 

・唐沢山城救出

1559年関東管領の職を認められた謙信が、北条軍3万5000に囲まれた、唐沢山城の佐野昌綱を救援するために8000兵で向かいます。

 

しかし、十重二十重に囲まれた状況を見た謙信は、味方が集まる前に落城すると判断し、13騎と共に北条軍の中へ分け入り、唐沢山城の救援に向かいます。

 

それも、鎧を着けず道着服に十文字槍という出で立ちです。北条軍からしたら、何を考えているのか分からず、ただ見守るだけでした。

 

城に着いた謙信に対して城内の士気も上がり、城内を、打って出た謙信達によって北条軍は蹴散らされることになります。

 

・小田原城攻め

10万の大軍で小田原城を包囲した時のお話です。蓮池のそばで、弁当を広げ食事をしはじめました。

 

それを見た北条方から、鉄砲を打ちかけましたが、鎧の袖には当たるものの謙信には、一切当たりませんでした。

 

その状態で、謙信はお茶を三杯飲みながら食事を続けたということです。

 

この当時は、今よりも迷信を信じることが多かったと思います。そのため、このような行為に及ぶのは、信じられないことであり、夜叉か羅刹かと思われたと思います。

 

・川中島の合戦での一騎打ち

謙信と信玄の一騎打ちです。乱戦の最中に単騎で武田の本陣に突入し、床机に座る信玄めがけて、刀を7度振るいその内3度ほど、軍配に防がれたという有名な逸話です。

 

このように謙信には、少々人間離れした逸話がたくさんあります。毘沙門天を信仰していたからだけでなく、普段から常人離れしたオーラが漂っており、上の逸話みたいに、それを体現してしまうことがあったのでしょう。

 

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上杉謙信の戦術。常に先頭で指揮をすることで即断をしていた

上杉軍は当時から、武田軍、同様に兵が強いと他国から恐れられていました。越後地形条件が影響しているなどありますが、やはり謙信が指揮をしていたから強かったと言うのが正しいと思います。

 

それは謙信が亡くなった後は、上杉景勝や直江兼続の代です。やはり以前のような強さを見せる戦いは、あまり見られなかったことからも、分かると思います。

 

その上杉軍の強さは、陣頭で指揮を執る謙信のスタイルがあったからだと思います。

 

これがなぜ、強さにつながるかというと、当時の軍隊は何かあった際に、本陣から使番という伝令が特定の部隊に走り、命令を伝えるという連絡手段をしていました。

 

今でこそ携帯や無線などですぐに情報を伝達することが出来ましたが、このタイムラグは刻々と変わる戦場では命取りになりかねませんでした。

 

謙信は陣頭にいるため、自身の目で戦場の流れを確認し、矢継ぎ早に指示を出すことができました。

 

それに合わせて部隊が即行動するため、敵が対応する前に、対応した後に指示を変化させることができました。

 

つまり、防御を固めたところではなく、逆に薄くなったところを攻めたりすることが、すぐに出来たのです。

 

それが車懸かりの陣の特殊性や手取川での勝利につながっていると思います。

 

また、その戦術眼は、14歳で初陣してから、いえ、子供のころから城の模型を使ってシュミレーションしていたほど錬磨されています。

 

名将の武田信玄でも苦戦するほどですので、やはり戦の天才としか言いようが無かったと思います。

 

川中島の戦いでも、信玄が率いる武田軍でなければ、完全に粉砕されていたでしょう。

 

それを、引き分けにもっていくことができたのは、

信玄が優れた武将であったという証拠になると思います。その信玄でさえ、この川中島の戦いを口外することを禁止したことからも、

 

引き分けよりもむしろ負け戦だったということだと思います。そして、謙信との正面衝突を極力避けるようになるのもこの後からです。

 

つまり、謙信と勝負をするのは得策でないと判断したからといえると思います。

 

川中島で活躍した上杉軍の猛将といえば、やはりこの人でしょう。

 

上杉軍の猛将・柿崎景家は戦だけでなく奉行職も出来る名将

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上杉謙信は、戦争の前に毘沙門堂で作戦を練っていた

謙信が、戦の前に毘沙門堂に篭って必勝祈願をしていたというのは有名な話ですが、その期間は3日とも7日という事もあったみたいです。

 

さらに、兵の動員はしても次の作戦目標は、誰にも伝えていなかったというのです。つまり、謙信の頭の中だけにその戦略がないのです。

 

ちなみに川中島の戦いは、越中に出兵すると言いながら、川中島に向かったという話です。

 

家臣からしたら、大変だったと思いますが、きっとこれには訳があるからだと思います。

 

相手に真意を悟られずに、準備不足にさせることができれば、戦場で優位な状態で戦に臨むことができます。

 

おそらく、そんなところまで謙信は考えながら戦をしていたのだと思います。わかってはいるけど、なかなかできることではないでしょう。

 

ちなみに死去した際も、次の出兵が関東かそれとも上洛か誰も知らなかったのは有名な話です。

 

おそらく、戦術と戦略を練りどう相手が出てくるのかなどを考えていたと思います。

 

だから、どんな状況でも落ち着いていられるのは、予測通りにことが動いているが分かっているからだったのでしょう。

 

ここまで真摯に戦に向き合っているからこそ、戦が強いのだと思います。

 

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まとめ

上杉謙信が戦が強かった理由は、個人の性格にあるのではないかと思います。

 

ある種天才で、信玄は秀才。だから、信玄だからやや負けぐらいで済んだのではないかと思います。

 

そして、本当に戦国の不義を正そうとしていた点も忘れてはいけないと思います。

 

だから、他の大名からだと何を考えているか分からない、神秘性も増したのではないかと思います。

 

信長の戦術についても書いていますので、謙信との差を感じてみてください。

 

戦国武将の織田信長は戦上手、それとも戦下手。得意とした戦術は何。

 

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