歴史

上杉軍の猛将・柿崎景家は戦だけでなく奉行職も出来る名将




今回は、上杉謙信配下の猛将として名高い、柿崎景家を紹介したいと思います。

ちなみに、前回は、

武田四天王の1人馬場信房の不死身の鬼美濃の由来と生涯

でした。

では、早速すすめていきましょう!

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上杉軍の猛将・柿崎景家は戦だけでなく奉行職も出来る名将

柿崎 景家 永正十年(1513年)?〜天正二年(1574年)※天正三年(1575年)説も
                       

 越後長尾氏・上杉氏の家臣であり、上杉氏の国人衆。和泉守。城崎城・猿毛城を領する。子に、憲家・晴家・祐家。

 景家が登場するのは、天文年間(1532年〜1554年)におこった、上条上杉氏の乱に際して、謙信の父・長尾 為景に属して戦功をたて、柿崎一族の惣領
となり和泉守を称した時です。

為景没後は、20歳近く離れた、謙信の側近くに仕え春日山城に館を構える事を許されるなど、直江氏に次ぐ重要な位置を占めています。

 その景家は剛勇をもって知られ、謙信配下にあって並ぶもののない勇将として称えられた。

しかし、謙信いわく『景家もし分別あらば、七郡に手に合うものあるまじ』

と、これをみる限りでは、剛勇無双ではあったが思慮分別に欠けるところがあったものだろうと推測できます。

 とはいえ、治下にあっては重臣として、政治に参画し、戦にあっては七手組みの旗頭として常に先陣を務め、当時景家の武名は遠く中国地方にまで鳴り響いていた
ようです。

余程の武名であったのでしょう。

あの謙信がここまで評価しているという事は、戦働きは抜群だったことが想像できます。

 絶頂時には、景家の所領は三万貫といわれ、保倉川以北一円を殆ど勢力化に置き猿毛に詰め城を築き、上越・下越の要所を抑えていた。謙信の信頼がいかに高かっ
たか想像できるもではないでしょうか。




柿崎景家は上杉25将の1人であり、上杉4天王の1人でもある優秀な人物

景家は、上杉二十五将の一人で、その中でも主家に貢献し四天王と呼ばれる中に列せられています。

他に、直江 景綱、甘粕 景持、宇佐美 定満

ここまでは、彼の武名ばかり紹介してきましたが、以外に内政面での活躍も大きかったということは、あまり知られていません。

華々しい戦功の影に隠れていて、表に出てこなかったのでしょう。

多少前後しますが、謙信と兄・晴景との後継を仲裁した上杉 定実の養子問題で、奥州伊達家に外交で赴いたり、北条との越相同盟の際には、実子のいない謙信の替わりに、息子・晴家を人質に出すなど外交面での活躍します。

また、永禄元年(1558年)には、春日山城の留守居番として内政を担当し、奉行職としても謙信の法令を斉藤 朝信とともに連署し執行するなど、永禄元年から主家の内政に大きな関わりを持っていたことが記載にのこるなど、内務官僚としてもその能力が高かったことがうかがい知れます。

ただの武辺者ではなかったことは、興味深い事です。




柿崎景家の川中島の戦いでの活躍

とはいえ、景家の本領は勇猛な武人であり、謙信の初の上洛の先駆を務め、小田原城攻撃に参加し、これに続く関東管領就任の為、鶴岡八幡宮に参賀した際には、警護役として謙信の側を固めた。

 関東進出・越中進出と各地の合戦に参加して、武勇を鳴らしたが最も彼を知らしめたのは、武田 信玄との『川中島の戦い』4回戦ではないでしょうか。

 武田軍の作戦を察知した謙信は、夜陰霧の中出陣を決断します。

景家は先陣として真っ先に、妻女山を駆け下り武田の先陣山県 昌景(当時は。飯富)隊に肉薄した。

 漆黒で統一された柿崎隊は、『景家の気迫は、鉄をも貫きかねないであろう』と言われるに相応しく、武田の先備えは激しい攻撃に崩され、陣形を留める部隊は、僅かという有様だった。世にいう車懸りの陣形で両軍入り乱れての乱戦になりました。

この戦いにおいて、信玄の弟・武田 信繁、軍師・山本 勘助を討ち取ったのは、景家率いる柿崎隊でした。

錐のように鋭く突撃する景家に、勇猛でなる武田軍も恐怖したに違いありません。上杉軍の勇猛さをみせつけたことでしょう。

 その後、妻女山に向かった武田別働隊が到着してからは、戦況が一変し上杉軍は撤退を開始。景家は、深入りし過ぎ、飯富 虎昌の反撃に合い友軍の色部 勝長に救援を頼むなど、多少思慮に欠ける行為をしています。

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柿崎景家の最後と人となり

 その後も、活躍を続けるのですが、天正元年(1573年)の越中出陣を最後に、景家の記述は消えてしまいます。

一説には、信長の謀略を信じた謙信が、越後水島で父子ともども、誅殺したといわれています。

その後、謙信の突然死は、景家の亡霊が呪い殺したとささやかれたりしましたが、後世の作り話であるみたいです。

 

その後の、軍役帳で殺されたはずの晴家の名があるなど話として、つじつまが合わない部分が出てくるからです。

また、信頼していた景家を殺すとは思えません。現在では、病死説が有力になっています。

 武勇のイメージが強い景家ですが、彼の治めた柿崎町では景家を偲んだ祭りが行われるなど、慕われる人格であったことが分かります。

また、景家夫妻の肖像画も現在に残るなど、本当は、心優しい人であったのではないかと思わされる、話ではないでしょうか。



まとめ

 いかがだったでしょうか、今回は。自分も調べていく内に、景家の知らない一面に驚かされました。

猛将のイメージがついて回る景家ですが、内務官僚としての実力も持っており、上杉謙信にとって欠かせない人材であったことが分かります。

柿崎景家も登場するゲームです。興味が有る方はぜひ!

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