歴史

総集編が待ち遠しい大河ドラマ【西郷どん】第46回西南戦争は征韓論から始まった





こんにちは、シロチワワです。

西郷どんもいよいよ最終回が近づいてきましたね。今回のタイトルでもある士族最大の蜂起、日本最後の内乱である西南戦争に

突入していきます。

今回は、そんな西南戦争に至るきっかけについて書いていきたいと思います。

大河ドラマ【西郷どん】46回。西南戦争に突入。西南戦争について考えてみた

西郷隆盛が西南戦争を引き起こすきっかけになった征韓論とは。

少し歴史を戻りまして、なぜ西郷隆盛が立ち上がることになったのかを見ていきたいと思います。

明治維新を成し遂げた明治政府は、外国と肩を並べれるように富国強兵をおしすすめていきます。その中心にいたのが、維新の三傑と言われた

薩摩藩(鹿児島県)の西郷、大久保利通、長州藩(山口県)木戸孝允でした。

当時の世界状況は、帝国主義が全盛の時代であり、各国が世界各地に植民地を持つ時代に突入しつつありました。大国だった清(中国)も、イギリスや

フランスにアヘン戦争などで敗北し、香港を植民地にされており、力がない国は他国の支配下に置かれるような状況でした。

日本も各国と不平等条約を結ばされ、危機的な状況にありました。幕末にこのような状況を見聞きした志士たちが危機を覚え、

結果幕府を倒す原動力の一つになったのですが、先に結んだ不平等条約を解消しなければ、真の独立国として世界からは見られない状況ではありました。

そのため、明治政府は欧米に対して視察がメインとあわよくば不平等条約の改正をしてもらえるように大規模な視察団を派遣します。

通称【岩倉視察団】

主だった人で、岩倉具視、大久保、木戸、伊藤博文、総勢:使節46名、随員18名、留学生43名の大規模な視察団でした。特に政府の中枢にいた

岩倉、大久保、木戸が長期に抜けるため、留守を任される西郷達の留守政府には、重要事項は決めないようにとの約束がありました。

新しく出来たばかりの政府でやることは山積みで、ましてや船での移動手段しかありません。何も決めるなというのは、土台無理な約束だと思うのですが、、、

そのため、大久保たちがいない1年程度の期間で、留守政府の西郷たちは地租改正など多くの法律などを決めていくことになります。その中で決定的な

事件が起こります。それが、征韓論と言われる物です。




大河ドラマでも出てきた征韓論と明治六年の政変とは、どんなものだったのか。

分かり易くいえば、武力で朝鮮を開国させるという主張でした。明治政府が出来てから当時の朝鮮王朝の李氏朝鮮とは、国交が断絶した状態でした。

歴史の教科書でも出てきたことがある、朝鮮通信使で幕府とは最低限の交流はありましたが、それが明治になりまったくなくなった状態でした。

李氏朝鮮は400年以上続く王朝でしたが、基本的には鎖国政策をしており、宗主国である清の属国でした。そのため、清が鎖国政策をしていたのを

同じように行っていました。さらに新政府に対しても正当性を認めようとせず、国書を何度も拒否したり、日本人との交流を罰するなど

排日的な政策を取るようになりました。そのため、日本国内でも朝鮮に対して反発や在留邦人の保護などを求めて出兵する機運も高まっていきました。

では、なぜここまで当時の新政府が朝鮮に対してこだわっていたかというと、強国ロシアの脅威がありました。当時ロシアは不凍港を求め南下政策を取っており、

樺太や千島でも日本とも利害がぶつかるような状況でした。そのため、陸続きである朝鮮がこのままロシアの植民地になると日本は国防上非常に危険な状態に

陥る可能性がありました。なんとしても朝鮮に独立をしてもらい、自立をしてもらうことこそが日本の国防上必要なことだったのです。

そのため、留守政府の中で征韓論の議論がされるようになっていきます。

征韓論と聞くと西郷の名前がすぐ出てきますが、もともとは、佐賀藩(佐賀県)江藤新平、副島種臣、土佐(板垣退助)が主張していました。むしろ、西郷は

朝鮮に出兵自体は反対で、大使を送り交渉をする遣韓論でした。

そんな折に、使節団が帰国し国内の征韓論の盛り上がりに驚くとともに、反対をします。進んだ欧米の状況を見た彼らには、他国へ関渉するよりもまずは、

国内の問題を片付けることに力を注ぐことが大切だと主張し、真っ向から対立をしてしまいます。議論は紛糾し、西郷が辞職に言及することで

西郷が辞職することで多くの政府関係者が歩調を合わせ退職することを懸念した三条実美が、西郷の挑戦への派遣を決定します。

それに対して、大久保も同様に辞表を提出しその板挟みにあった三条が体調不良で倒れてしまいます。その代理であった岩倉が、留守政府の案だけでなく

自身の考えも別途陛下に上奏してしまいます。政治の世界は、今も昔も凄い戦いですね。結果、留守政府の案は却下されてしまいます。

この結果に憤慨した西郷や江藤、板垣など多くの征韓派の人たちは、すぐに辞職をしてしまいます。話を聞くだけでやり方は汚いですよね。仕方ないのだと

思いますが。とにかく、彼らの後に続いて600名程度の官僚や軍人が辞表を提出し、明治政府を去ってしまいます。まさに、国を割るような大事件に発展

してしまったのです。これを明治6年の政変といいます。こうして、西郷らは郷里に帰り士族の反乱の主導者になっていく下地が出来てしまったのです。

まとめ

こうして西郷は政府を離れ鹿児島に戻ります。上野にあるような犬を連れ山野を耕す生活をしばらくをすることになるのですが、明治の立役者であり

カリスマのある彼を時代がそんな生活を認めませんでした。

次回は、いよいよ士族の反乱について記事を書いていきたいと思います。














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