謀将・宇喜多直家は、謀略だけでなく家臣思いの名将だった | セミリタイアするチワワ

謀将・宇喜多直家は、謀略だけでなく家臣思いの名将だった





こんにちは、シロチワワです!

今回は、謀将として名高い宇喜多直家を紹介したいと思います。

ちなみに、前回は、

鬼道雪こと雷神・立花道雪と雷切とその生涯

でした。

 

では、早速すすめていきましょう!

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謀将・宇喜多直家は、謀略だけでなく家臣思いの名将だった

宇喜多 直家 享禄2年(1529年)〜天正九年(1581年)

 

宇喜多家は、備前地方では名族で直家の祖父・能家は備前守護代・浦上家に三代にわたり仕えます。直家は居城砥石城で、父・興家の長子として生
まれました。幼名を八郎、三郎左衛門、和泉守。

 しかし、そんな彼の幸福な人生も長くは続きませんでした。直家が六歳、天文三年(1534年)に高取城主【島村 盛実】の襲撃に合い、祖父・能家は自害し、父と共に城を脱出し、しばらくは縁者を頼りに備前各地を転々とする事になるのです。戦国の定めを若年にして身をもって体験したことが、彼の人生に深い影を残しました。

 

 父がまもなく亡くなると、彼は伯母の尼僧の下で成人まで育てられる事になります。天文十二年(1543年)ごろから、天神山城の【浦上 宗景】に仕えはじめその年、隣国播磨の赤松 政祐との戦いで初陣を飾り兜首を挙げる活躍をし、知行を得ることになります。

 

 さらに、浦上家の最前線である乙子城を与えられるなど寵愛されるのでした。また、ちょうどその頃彼の創業を助ける家臣・戸川 秀安、岡 利勝、長船 貞親、花房 正幸らが加わります。

 

意外に知られていませんが、この時期・直家の家計は苦しく家臣は耕作や敵地に野党まがいのことまでし兵糧を蓄え、緊急時のため絶食を月数度するなど艱難辛苦したそうです。これは、徳川家康の若い時代にそっくりですが、共に苦労することで家臣団の結束が高まる原動力になったことでしょう。

 




宇喜多直家の復讐と謀略謀殺のはじまり

 

足場を得た直家は、いよいよ祖父らの復讐を開始します。手始めに、内通した、浮田 大和を討ち、仇敵・島村 盛実を城中にて誘殺し、また舅である
中山 信正までも奇策を用い討ち取ります。

 内通組みの抹殺の褒美として彼らの所領をいただき、次第に浦上家での勢力を拡大し、独自での軍事行動を開始していくことになります。備前・美作に対し進出する気配をみせる備中の三村 家親に向け、刺客を放ち暗殺に成功します。

 

翌・永禄十年(1567年)父の仇を報ぜんと二万の兵を率いて備前に攻め入った三村 元親を得意の策で誘導し、僅か五千の寡兵をもって撃退に成功します。この戦いを『明善寺崩れ』といい、近隣諸国での直家の武名を轟かせることになりました。

 

以後備前での直家の威勢は確立し、いままで三村家に従っていた者たちが直家の下になびくようになりました。その勢いに乗り、婚姻関係にあった金川城主松田 元輝を攻め滅ぼし、内通の疑いあった岡山城主・金光 宗高に切腹を命じて、岡山城を奪い取ります。

 

 暗殺・謀略と手段を選ばないやり方で、勢力を拡大していきました。弟の忠家でさえ晩年の述懐で、『兄の前に出る時は、必ず衣服の下に鎖帷子をつけたものだ。』と言ったといわれます。まさしく、謀略の数々でのし上がっていった様子が目に浮かびます。




宇喜多直家の主家乗っ取りと下剋上の達成

 

この後、毛利勢が本格的に備中に侵攻し、直家と激しく対立をしますが、元亀三年(1572年)足利 義昭、織田 信長の命により和睦をしますが、まもなく義昭が信長により追放されると、将軍方か信長方かに選択をせまられます。

 

主家・浦上家や三村家が、信長方に付く中、直家は毛利氏に従います。そして、敵方である三村氏を共に攻め滅ぼし、また、余勢をかって主家である浦上家との全面対決を決意するのでした。

 

天正五年(1577年)浦上 正宗の孫・久松丸を擁し播州勢と称して、天神山城に籠る浦上 宗景を攻め、敵将・明石 景親を内応させ場内に宇喜多勢を手引きさせ、落城させます。

ついに、主家・浦上家を播磨に追放し、備前のみならず備中の一部、美作の一部を支配する大名へと成長するのでした。しかし、信長の命を受けた羽柴 秀吉が中国方面に侵攻してくると、各地で織田勢と戦うことになります。

 

さすがに、織田軍は強く直家も苦杯をなめるはめになります。この頃より、強大な織田家の力を知り、毛利・織田両家に味方する方針に転換し、尼子遺臣が籠る、播磨・上月城攻めに対しては病気と称し、弟・忠家を出陣させるようになります。時代の流れを読める直家らしい生き残りを模索している感じが分かります。

 




 

宇喜多直家の最後

次第に、毛利は直家に警戒を強めるようになると、天正七年(1579年)に、播磨の秀吉のもとに直家自ら赴き、織田家へ寝返ります。信長よりも、本領安堵の朱印状をいただくことに成功します。

 しかし、織田家に帰順したことで毛利氏との対立が激化し、備中・美作での争いが起こります。これより、吉川 元春、小早川 隆景率いる毛利勢の侵攻が再三にわたります。

 備中忍山合戦、備前八浜合戦、備前辛川合戦、美作寺畑城合戦など各地で激しい戦いにが繰り返されます。戸川 達安らの活躍で勝利も得ましたが、全線で劣勢に追い込まれてしまうのです。

 この頃より、直家は病を患い、岡山城を出ることはありませんでした。秀吉軍の本格的な侵攻を心待ちにし、天正九年(1581年)病のため病死します。享年五十三歳。

 当時は、毛利氏との対決中でありその死は伏せられ、城中に葬られたそうです。その死が、公表されたのは翌天正十年(1582年)のことでした。直家がいかに恐れられていたかが知れることではないでしょうか。

 

 


まとめ

いかがだったでしょうか。戦国時代には、策謀家はあまたでましたが、この人ほど暗殺をした人はいなかったのではないかと、個人的には思っています。しかし、幼い頃の情景が彼を苦しめここまでさせたと思うと、つい同情してしまいます。戦国時代ならではですがね。

 

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