歴史

島津家久は、島津四兄弟の中で最も戦術に長けた名将だった





こんにちは、シロチワワです。

さて、前回は

川越夜戦で活躍した北条綱成は北条家に長く仕えた名将

でした。

今回は、九州に飛んで島津家久を紹介したいと思います。

では、早速スタートです!

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島津家久は、島津四兄弟の中で最も戦術に長けた名将だった

島津 家久天文十六年(1547年)〜天正十五年(1587年)

薩摩の戦国大名【島津 貴久】の四男として生まれる。兄は、義久、義弘、歳久で異母兄にあたります。幼名は、又七郎。中務大輔、日向・佐土原城主。

戦国時代において、島津四兄弟は非常に有名な兄弟でですが、この家久は兄たちと十歳以上も歳が離れており、登場するのは戦国中期からの人物です。津中興の祖である、祖父・島津 忠良から、『軍法戦術に妙を得たり』という評価をされていました。

その家久が、祖父の評価に違わぬ活躍をするのは、永禄四年(1561年)の大隈・肝属家との『廻坂の合戦』からです。この戦いが初陣の家久は、僅か十五歳にして、敵将・工藤 隠岐守と槍合わせし、見事討ち取り将来を渇望されるに相応しい初陣を飾ることになります。初陣から猛将だったなんて凄すぎます!

また、永禄十二年(1569年)北薩の菱刈氏との羽月合戦においては、自ら囮役になり、伏兵戦術を駆使し敵を大いに打ち破っています。これは、島津のお家芸である『釣り野伏』の一つの型であるみたいです。この若さにして、すでに戦術家としての才能を見せ始めていきます。

その後、家久は家中随一の猛将として島津家に欠かせない野戦司令官として、戦場を疾駆することになります。

島津家久は、武功だけでなく教養を持ち合わせた人物だった

天正三年(1575年)になり、島津氏は、薩摩、大隈に加え先年の木崎原の戦いにおいて、日向の伊東氏を破り三州統一も目前に迫っていました。家久はこれに感謝をすべく、伊勢神宮や愛宕権現への参拝を思い立ち上洛をします。

上洛してほどなく、三好残党を討ち凱旋帰国する信長と偶然にも出くわすという幸運にも恵まれ家久の日記には、絢爛豪華な信長の軍の様子や居眠りしている信長の様子が書きとめられています。信長も人なのだと、感じさせる話ですね。

その後、連歌師・里村 紹巴や明智 光秀に歓待されるなど参拝だけでなく、情報偵察、外交使節の意味合いも込められていたことが読み取れます。中央から遠く離た薩摩からでも、情報を取りに行く姿勢が大切だと感じさせる話です。

また、光秀には茶の湯を進められるが『茶湯のこと不知案内』のため、白湯を所望するなど、上方の人には田舎者に見えたかもしれないが、家久は、恥じることなく堂々としていたみたいです。

とにかく、この上洛により視野を広げただけでなく、ただの武人ではないところが文学にも感心が高く一族の樺山 玄佐に古今伝授を受けていたりします。家久がなかなかの教養人であったことが想像できます。逆に考えるとこのような教養人であったからこそ、上洛の機会を与えられたのかもしれませんね。

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島津家久は、大友、龍造寺を撃破した名将だった

その後、日向の伊東氏を豊後に追い出すと、伊東氏の居城である佐土原城主に任命され、日向方面の総司令官となります。兄・義久の信頼がいかに高かったのかが伺えます。

しかし、この結果により当時九州の大半を制する大友 宗麟と領国を接することになり衝突はもはや避けることは出来ない状態でした。天正八年(1578年)伊東氏の領土回復のため南進を決意し、先遣隊五万を進軍させることになります。

日向前線拠点・高城を包囲しますが、城主・山田 有信と援軍に駆けつけた家久の数千の篭城軍に苦戦し、義久率いる本隊の到着まで時間を稼ぎます。
その後、義弘による『釣り野伏』の作戦と機を見た、家久率いる篭城軍の反撃に合い大友軍は大敗北することになります。多くの家臣たちと将兵を失う結果になり、この『高城・耳川の戦い』以後、大友家は再び隆盛することはありませんでした。それほどの大敗北を喫することになります。

島津の九州平定の原動力となったのは、この家久の活躍が抜群であり、彼の活躍なしに島津の隆盛は語れないといっても過言ではありません。

次に、天正十二年(1584年)大友家の衰退により、肥前地方で勢力を急速に伸ばしていた肥前の熊・龍造寺 隆信との戦いもまた、島津家にとっては避けられなくなっていました。その年、龍造寺に叛旗を翻した有馬 晴信の援軍要請に志願したのは、方面が異なる家久でした。

総勢三千余りで島原半島に上陸し、有馬軍と合流したがその数はわずか五千人ほどでした。対して、龍造寺方は、最低でも三万といわれ兵数ではとても勝負は出来ません。そこで家久は、大軍の進退に困難な沖田畷に誘い込み殲滅する作戦をとります。

合戦は、家久の想像通りに展開します。兵力に油断した龍造寺軍は、細い道と湿地に囲まれた地形のため大軍を活かせず、苦戦を強いられます。さらに、家久の巧みな戦術により総大将の隆信まで討ち取られてしまいます。この『沖田畷の戦い』において、九州のパワーバランスは、島津に大きく傾くことになり、いよいよ九州統一が夢ではなくなってきました。

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島津家久のその後

もはや、島津の勢いを止められるのは九州にはいません。しかし、中央ではすでに信長の後を次いだ豊臣 秀吉が惣無事令を発していました。それを拒絶した島津軍は、肥後口と日向口から豊後に攻め入ります。

日向口は、もちろん家久が総大将でしたが、総勢は一万ほどでした。北進を続ける島津に対し大友救援のため秀吉到着までの時間稼ぎとして、軍監・仙石 秀久、長宗我部 元親、十河 存保の四国勢が、すでに到着していました。

鶴賀城を囲む家久は、冷静に敵軍を観察し備えをし、待ち構えていました。それに対し、四国勢は功を焦る仙石 秀久が、元親の反
対を押し切り開戦を決定し、戸次川を渡河します。

きっと、家久はニヤリと微笑んだに違いありません。誘い込んだ四国勢を両翼より攻撃し、完膚なきまでに粉砕。元親の嫡子・長宗我部 信親、十河 存保を討ち取る大勝利を収めるのです。仙石秀久は、真っ先に戦場を離脱し、居城の洲本城まで逃げ帰るありさまでした。

しかし、各地での大友勢の決死の抵抗により、島津の北進も遅々としか進まず、秀吉の本隊二十五万が九州へ到着すると、戦況は悪化。家久も、抗戦しますが衆寡敵せず、翌天正十五年(1587年)羽柴 秀長に降伏します。

その後、秀長と会見しますが、まもなく他界します。そのため、毒殺説が流れるなど不穏な噂が広まります。しかし、実際は病気であり突然の死により、憶測が飛び交ったというのが、本当のところではないでしょうか。

享年四十一歳とあまりにも若すぎる死でした。




まとめ

第五回は、いかがでしたか?初めての西国編で誰を選ぶか迷ったのですが、島津 義弘ではなく、家久にさせていただきました。その活躍のわりには
どのような活躍をしたのかご存じない方も多いと思います。これで、払拭したらいいなと思っています。








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