武田四天王の1人名将山県昌景と赤備えの生涯 | セミリタイアするチワワ

武田四天王の1人名将山県昌景と赤備えの生涯




こんにちは、シロチワワです。

歴史が大好きな私が今回紹介したいのは、武田の名将・山県昌景の生涯です。ゲームでも人気がありますが、

どんな活躍をしていたのか書いていきたいと思います。

前回は

戦国武将の織田信長は戦上手、それとも戦下手。得意とした戦術は何。

ということについて記事にしたのですが、今回も戦国好きに堪らない内容になっています。

 

戦国に興味がある方はぜひ、読んでいってください。ゲームに興味がある方は、もうすぐ発売する信長の野望もおすすめです!

 

武田信玄の武田四天王の1人名将山県昌景と赤備えの生涯

山県 昌景(享禄2年・1529年〜天正3年・1575年)

 

 戦国最強と恐れられた武田軍の中でも、軍装を赤で統一した【武田の赤備】として、他国にまで武名を轟かせた猛将です。はじめは、【飯富源四郎昌景】と名乗り、
後に【山県三郎兵衛尉昌景】となる。駿河江尻城代。

 

 初陣は、信州伊那攻めの時、神之峰城攻略で一番乗りという功名を立てる。『源四郎の赴くところ、敵なし』とまで称された。信玄の近習からはじまり、使番と出世しその才を発揮していきます。板垣・甘利亡き後は、信玄の片腕として軍事面はもちろん、内政・外交面など、武田家隆盛に大きく貢献をしていくことになります。

 

 昌景といえば、猛将のイメージが強く武勇一辺倒の武将と思われがちですが、特に軍事面での才能が飛び抜けていたというのが、本当のところではないでしょうか。そのため、内政面や外交面でも武田家の家宰として取り仕切る役についています。特に野戦・攻城戦においての駆け引き・采配ぶりは、信玄も感嘆するほどの妙を見せたといわれてます。中でも、城攻めの短期決戦は山県勢のお家芸と定評がありました。




川中島の戦い4回戦での山県昌景の活躍

 

 戦国時代の中でも、激戦として名高い【川中島の戦い】4回戦でも、その武名と高い指揮能力を見せます。幕霧といわれる濃霧の中、キツツキ戦法を破られた武田軍は危機に陥ります。武田の本陣を攻める上杉勢の車懸りの攻撃に対して、武田の十二段の鶴翼の陣も崩され、陣形を止めていたのは本陣と後詰の穴山隊、そして山県隊というありさまでした。すさまじい乱戦の中でも、その陣形を整えて整然と戦えていたのは、昌景の見事な指揮があったからだと思います。

 

 真偽のほどは分かりませんが、上杉軍の猛将【小島 貞興】(鬼小島 弥太郎)との一騎打ちの逸話が有名です。とにかく、妻女山に向かった別働隊が到着するまで
奮闘を続け、上杉勢の猛攻を支えきりました。

 

 その後、上洛を目指す信玄の側で、さらに活躍の場は広がります。そんな矢先、信玄の嫡男・義信の謀反?(信玄の陰謀説あり)により、兄・飯富虎昌が処刑されてしまいます。信玄より『反逆者の一門といわれては、肩身が狭いだろう』と山県の名を名乗るようにいわれ、以後【山県 昌景】と、名乗ることになります。

 

義信との確執後、駿河・今川氏へ進行を開始すると、さらに彼の能力を発揮する機会も増えました。北条氏との、【三増峠の戦い】においては、別働隊を率い北条
軍の背後を突く活躍を見せ勝利の立役者になります。また、上洛戦においても先遣隊として、三河、遠州へ進行するなど一部隊長から、司令官としての能力をも高く評価されるようになります。




織田徳川連合軍を粉砕した三方ヶ原の戦い家康も死を覚悟した追撃

 

彼の武勇を後世にまで轟かせた【三方ヶ原の戦い】では、先陣を務めさらに敗走した家康を猛追し、『さても山県とは恐ろしき武将ぞ。危うく命を落とす所であった』と、心胆寒からせました。野戦巧者の家康と、精強な三河軍団をズタズタにし、家康の旗印が倒れたのは大阪夏の陣の【真田 幸村】だけです。それほど、山県隊の猛攻は

すさまじかったと言われています。

 

 現に、家康が武田滅亡時、山県隊の遺臣を多く召抱え家臣の【井伊 直政】に与え【井伊の赤備】を作ったのは有名な話です。余程、山県の赤備が家康の脳裏に焼きついたということでしょう。その後井伊の赤備は、家康の最強部隊になっていきます。

 

 その後、まもなくですが、信玄の病気が悪化。上洛を諦めて甲斐を目指す途中で信玄はなくなってしまいます。信玄臨終に際しても、後事を託されるなど信頼をされていたということが分かります。昌景を呼び、『明日は瀬田に旗を立てよ』と言われたといいます。勝頼の代になると、【馬場 信房】ともども筆頭家老として、勝頼を補佐します。美濃明智城攻めに際して、援軍に来た信長本隊を迎撃し追い払い明智城攻略に貢献します。

 

 ただ、信玄亡き後の武田家は、すでに一枚岩ではなく微妙なバランスの中各地での戦い・内務に奔走します。




長篠の戦いでの壮絶な最後

そんな昌景にも、最後の時が来ます。【長篠の戦い】において、織田・徳川連合軍に対し、左翼に展開し徳川勢に対して攻撃を開始します。竹束で矢玉を掻い潜り
ながら、馬棒柵を引き倒そうとする山県隊と守る徳川軍、柵付近での壮絶な白兵戦が繰り返されます。ただ、早朝まで続いた雨により、泥田の様な状態に足をとられ
、苦戦を強いられます。事実、城攻めをしているようだったと甲陽軍鑑には記載がありました。

 

 また、背後に回りこむにも切り立った断崖の為、回り込めず柵前での消耗戦に引きずり込まれてしまいます。数時間後、後方の砦が徳川の【酒井 忠次】に奇襲され
、陥落した報告が勝頼の下に届きます。夜半に後方の長篠城の抑えとしてした砦が、奇襲を受け陥落し挟み撃ちの状況になってしまいました。後詰を投入し撤退を指示する勝頼の指示に従わない部隊が出ます。

 

 親類衆の【穴山 信君】や親類衆が、撤退を開始。武田軍に動揺が走ります。それを見た連合軍も全線で攻勢に転じます。疲労と後詰のない中、山県隊も撤退を開
始。津波のように勢いに乗る連合軍に対し、将兵を叱咤激励し反撃を加え、じりじりと後退していきます。

 

 追撃の勢いを殺されてはと、山県隊に対して執拗な攻撃が繰り返されます。昌景も両腕に被弾しながら、采配を口にくわえ尚も部隊を指揮します。その時、銃撃を
受け落馬。すでに、絶命していました。配下の志村又右衛門が、首を落とし敵に渡す事はありませんでした。

 

彼の死を知り、【徳川 家康】が悲しんだのは有名な話です。昌景の死により、武田家の衰亡は早まったでしょうが、猛将・山県 昌景らしい壮絶な最後では
なかったでしょうか。彼の武名は、赤備と共に後世に残ることになるのです。



まとめ

 

 いかがだったでしょうか?【山県 昌景】は、私が最も好きな武将です。山県昌景の活躍は武田の強さを象徴していたと思います。

様々な武将がいたと思いますが、ぜひ評価をしたい武将だと思います。