歴史

武田四天王の1人馬場信房。信玄を補佐した不死身の鬼美濃の生涯





こんにちは。

 

今回は、不死身の鬼美濃で有名な馬場信房について書いていきたいと思います。

 

前回は、

武田信玄の武田四天王の1人名将山県昌景と赤備えの生涯 

 

 

でしたので、武田家繋がりになりますね。ゲームなどでは有名だと思いますが、実際の活躍については

 

 

どうだったのか興味がある方はぜひ、読んでいってください。

 

 

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武田四天王の1人馬場信房の不死身の鬼美濃の由来と生涯

『馬場 信房』永正十二年〜天正三年(1515年〜1575年)※永正十一年(1514年)説も。

はじめは、【教来石 景政】と名乗り、後断絶した譜代重臣馬場氏の名跡を継ぎ、【馬場 信房】となる。さらに、改名し【信春】となる。民部少輔、美濃守。

 

 

甲斐武田氏三代に仕え(信虎、信玄、勝頼)、武田二十四将の一人に数えられる。

 

 

その中でも、武田家隆盛に多大な貢献をした武田4名臣の筆頭として著名。※他に、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信

 

武田家に仕えたのは、信玄の父、武田信虎の代で諏訪方面での功名を挙げた記述が僅かに残る程度で、あまり重用されなかったみたいです。

 

 

本格的に活躍を始めるのは、信玄が父信虎を駿河の今川家へ追放してからになります。

 

信濃攻略戦において、犬甘城を計略で乗っ取るなど戦功を挙げ、天文十五年(1546年)に侍大将に昇格すると共に、信濃攻略の要である深志城代を任されるなど、軍事面だけでなく政治面においても、信玄の信頼が厚かった事がうかがい知れます。

 

また、築城技術にも優れた才覚を発揮し、諏訪原城、古宮城、牧野島城などの、信濃、駿河の各地において多くの支城を築いた。

 

 

甲斐国内には、城を構えなかった信玄も、他国には数々の城を築いたというのは、驚きであり、そのほとんどをこの信房が築城することになるのです。

 

 

ちなみに、山本勘助から築城術を伝授されたということです。

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馬場信房が武田の不死身の鬼美濃と呼ばれた由来

この信房は、武田の主だった合戦にはほとんど全て参戦し、生涯戦歴四十余年の中でかすり傷一つ負わなかったといわれます。

 

 

彼の異名は『不死身の鬼美濃』と呼ばれ、敵味方から畏怖されるほどの戦上手でした。

 

 

永禄四年(1561年)の『川中島の戦い』(四回戦)では、山本勘助と共に上杉軍を挟撃する、『啄木鳥戦法』を立案したといわれます。

 

 

上杉軍の背後に向かう別働隊を指揮するなど、武田軍の作戦参謀兼部隊長としても、大きく貢献するのでした。

 

後に、『一国の太守になっても、人後に落ちない器量人』と称されるのもうなずける事でしょう。

 

永禄八年(1565年)に病死した、原虎胤にあやかり、美濃守を名乗る。

 

上野の箕輪城攻略戦、永禄十一年(1568年)の駿河進行戦では先鋒を務め、駿河では今川氏が収集した財宝・名品の消失を惜しんだ信玄が運び出そうとすると、

『略奪者として後世の汚名を被る』と財宝を火中へ投じた。

 

信玄は、『信房の言った事、もっともである』と器量に恐れ入り、汚名を被らなかったことを感謝し、不問としました。信玄に物言える良臣であったことが分かりますよね。




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馬場信房の各地での活躍

 さらに、北条氏との『三増峠の戦い』においても、先陣を務め、山県 昌景率いる別働隊到着まで、敵の目を引き付けることに成功し、北条軍を粉砕する立役者になりました。

 信玄の上落戦では、天竜川にある徳川の難攻不落の二俣城攻略で川から城へ水を汲み上げる取水口を探り当て、上流から筏を流す策を講じ、取水口を破壊することに成功し決定打を演出します。

 

 

このときは、別働隊を率い物見に来た徳川軍を蹴散らしています。本多忠勝が殿でその武勇を発揮した戦いですが、馬場信房との戦いだったという事は、興味深いですね。

 

続く『三方ヶ原の戦い』では、第二陣として徳川軍と激突し、退却する徳川家康を、山県昌景と共に浜松城まで追撃します。

 

信玄に城攻めを具申するが、上洛を急ぐ信玄に中止されてしまう。結果家康は、その最大の危機を脱したのでした。

 

 

 その後まもなく信玄が亡くなると、武田家の筆頭家老として勝頼をよく補佐し、一門衆、譜代衆など、家中のまとめ役として力を尽くしていくことになります。

 

また、勝頼の東美濃・高天神城攻略にも従軍し、攻略の手助けをします。

 




 

不死身の鬼美濃の最後、長篠の戦いその働き比類なし

 

 

 そんな彼にも、最後の時が近づこうとしていました。天正三年(1575年)長篠城をめぐる『設楽が原の戦い』(長篠の戦い)で、織田・徳川連合軍に対し、右翼に展開し、佐久間信盛率いる6千と、激突し僅か7百の兵で数で勝る佐久間隊を撃破し、敵陣へ深く進入する事に成功します。

 

 

 同じく右翼に展開する真田兄弟真田信綱、真田昌輝、土屋昌続らの馬防柵に対する攻撃を援護する形をとります。

 

ただ、前線では、数で勝る連合軍と野戦陣地に苦戦し、武田の各部隊は苦戦を強いられます。

 

 そんな時、後方の砦が徳川の酒井忠次の奇襲を受け陥落の報が勝頼の下に届きます。

 

 

前線での芳しくない戦況に撤退を促す使者を本陣へ送った矢先でした。

 


勝頼は、撤退のため前線へ後詰を投入する指示を出しますが、一門衆の中には、穴山信君など勝手に後退を始める部隊が出ます。

 

武田軍に動揺が走り、連合軍の総攻撃が始まり、疲労と数倍の敵に追われながら、武田勢は退却を開始します。

 

柵外での壮絶な白兵戦が行われます。信房は、勝頼に撤退を促し殿を引き受ける事を伝えます。

 

 勝頼の本隊が撤退を開始すると、いよいよ攻撃は苛烈さを増します。

 

そんな中、殿の馬場隊は、目覚しい活躍をします。

 

信房の指揮の下、反撃しては後退する一糸乱れぬ部隊に、連合軍も手痛い反撃を喰らい、一時後退を余儀なくされました。その間に、勝頼は危機を脱することが出来たのです。

 

勝頼脱出後も、戦場に留まり、敗走する味方の退路を確保するために、獅子奮迅の働きをします。

 

最後に信房が、撤退する頃には周りには数人の供がいるだけでした。

 

その信房にも、追っ手がかかり、疲労する中、数人を切り伏せたところで、槍を衝けた岡三郎左衛門にその首を渡すことになるのです。

 

 『馬場美濃守、手前の働き比類なし』と連合軍に最高の賛辞を贈られました。

 

鬼美濃の名に相応しい最後であり、武田の意地を見せた武将ではないでしょうか。

 

まとめ

 

 『長篠の戦い』は武田ファンには辛いですよね。

 

そう思いながらも、名を残し、記憶に残るのは、その最後の瞬間なのだと感じる戦いでもありますね。

 

 

はたして、そんな状況で、自分を犠牲にしてまでも守ることが出来るのだろうかとつい、考えてしまいます。

 

そんな熱い男でありたいですね。

 

 今回も、最後までお読みいただきありがとうございました!

 

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