歴史

川越夜戦で活躍した北条綱成は北条家に長く仕えた名将





こんにちは、シロチワワです。

今回ご紹介するのは、北条家の名将・北条綱成です。

前回は、

上杉軍の猛将・柿崎景家は戦だけでなく奉行職も出来る名将

でした。

今回は、関東の雄の北条氏康の配下の紹介です。

 

早速、すすめていきましょう!

 

created by Rinker
コーエーテクモゲームス
¥7,900 (2019/09/17 05:44:07時点 Amazon調べ-詳細)

 

川越夜戦で活躍した北条綱成は北条家に長く仕えた名将

北条 綱成 永正十二年(1515年)〜天正十五年(1587年)

後北条家四代(氏綱、氏康、氏政、氏直)にわたり仕えた武将です。相模玉縄城主。左衛門大夫、上総介。

 北条という名乗りで登場することが多いのですが、もとは駿河今川家の家臣で、福島 正成の子です。少々厄介なのですが、この正成は二人登場します。

 大永元年(1521年)に今川軍の総大将として甲斐武田家に進行し、信玄の父・武田 信虎と戦い敗死した人物と、天文五年(1536年)今川家の内紛であ
る、『花倉の乱』で今川 義元の異母弟・今川 義真(玄広恵心)を支持し討たれた人物の二人です。

 そのどちらの説もあり判断に困るのですが、個人的には『花倉の乱』で討たれた人物ではないかと思っています。その後、綱成一族が北条家の小田原に落ち
延びる事になり、北条 氏綱の庇護を受けることになるからです。大河ドラマの風林火山でもこちらの説を取られていました。

 

 その後、氏綱は彼を大いに気に入り娘を娶わせて、北条一門に迎えるとともに、北条の姓を与えるほど優遇します。綱成の名乗りも氏綱の『綱』と正成の『成』を合わ
せたものです。これを見てもいかに、氏綱に評価されていたかうかがえますね。





created by Rinker
¥1,944 (2019/09/17 05:44:09時点 Amazon調べ-詳細)

北条綱成の地黄八幡の由来と武勇

綱成は、若い頃から武勇に優れ、毎月十五日は必ず身を清めて、八幡大菩薩に戦勝を祈願したといわれています。そして、いざ合戦になると朽葉色(黄色)に染めた旗を指物として、『勝った!勝った!』と、怒号しながら敵陣へ突入したと言います。

 そのため、その旗色から『地黄八幡』と畏怖され、常勝軍団として近隣諸国にまでその名が轟いたといわれます。また、常に北条軍の先鋒を務めるなど北条家の武を支えた猛将でした。

 

 更に、少年期には評価の芳しくなかった北条 氏康に代わりに、北条家当主に押す動きまであったといいます。これは、綱成がただの武辺者ではなく、人望を集めていたという事、そして能力の将来性を見せていたからに違いないでしょう。

 

 また、氏康の弟・為昌の後見人として相模玉縄城に入城してからは、地理的な条件から、奥州の白川 晴綱や下総の結城 政勝と連絡を取るなど、小田原の氏康の名代として外交手腕も発揮しています。

 

これは、綱成の武将としての才能だけでなく、大局的視点で物事を判断することが出来たという事、そして、氏康にも絶対的に信頼されていたという事でしょう。




created by Rinker
¥220 (2019/09/17 05:44:09時点 Amazon調べ-詳細)

北条綱成の河越夜戦での活躍

 

彼の武名を轟かすことになったのは、天文十五年(1546年)に、起こった『河越夜戦』ではないでしょうか。これは、厳島・桶狭間と合わせて、戦
国の三大奇襲と呼ばれたりもする戦いです。

 概要は、関東に進出する北条家に対して、旧勢力である上杉 憲政、上杉 朝定、古河公方・足利 晴氏らを中心とする関東の諸将八万騎が、綱成が守る河越城に攻撃を加えてきました。

 当時城を守る守備兵は僅かに三千。また、氏康も西で今川・武田と交戦中ですぐに援軍を差し向ける余裕もない状態でした。そんな中、剛勇でなる綱成は、緒戦で連合軍に打撃を与え、気勢を制すと、連合軍もその武勇に怯み力攻めでなく、城を十重二十重に包囲する兵糧攻めに変更することになります。

 

 その後約半年間、綱成は篭城戦に良く耐え今川・武田と和議を結び援軍に駆けつけた氏康本隊・八千と勝利で酔う連合軍に奇襲を敢行し上杉 朝定を敗死させ数で勝る連合軍を粉砕します。

 

 その後、関東でのパワーバランスは、北条家に傾きこれより、北条家の隆盛が始まるきっかけになったのです。綱成の活躍がなければ、北条家は滅びていてもおかしくない戦いであり、また、彼の武名を確固たるものにした戦いでもありました。




北条綱成のその後の活躍と最後

 

その後も、関東進出や対上杉戦で活躍し、大きな合戦では永禄七年(1564年)の第二次国府台合戦では、先陣を務め安房・里見 義堯を打ち破り、また、永禄十二年(1569年)の武田 信玄との深沢城攻防戦では、城将として戦い一旦は開城するも、その後後詰の部隊と合流し武田軍を悩ませた。

 その深沢城攻めにおいて、『地黄八幡』の指物を武田家の真田 信伊に奪われたといいます。その時の、綱成の指物は現存していますので、一度見てみたいものですね。

 その後氏康が亡くなると、綱成も家督を嫡子氏繁に譲り出家して【道感】と号し、天正十五年(1587年)玉縄城で亡くなります。それから三年後に、北条家が滅びるを見ずに済んだのは良かったのかもしれませんね。

 

まとめ

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました!早いもので今回で4名紹介することができました。今後も続けていきますので、引き続きよろしくお願いいたします。

created by Rinker
コーエーテクモゲームス
¥7,900 (2019/09/17 05:44:10時点 Amazon調べ-詳細)








-歴史
-, , , , , , ,

Copyright© セミリタイアするチワワ , 2019 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.