西国一の侍代将・陶晴賢の生涯と辞世の句 | セミリタイアするチワワ

西国一の侍代将・陶晴賢の生涯と辞世の句





こんにちは、シロチワワです。

さて、前回は

島津家久は、島津四兄弟の中で最も戦術に長けた名将だった

でした。

 

今回は、西国一の侍代将と呼ばれた陶 晴賢です。

では、さっそく進めて行きましょう!

 

 

西国一の侍代将・陶晴賢の生涯と辞世の句

陶 晴賢 大永元年(1521年)〜弘治元年(1555年)

 西国の雄、大内氏の家臣・陶 興房の次男。幼名・五郎。前名は、隆房。周防守護代、中務大輔、尾張守。

 陶氏は、大内氏の一族で重臣として、代々周防守護代を勤める家柄である。特に、晴賢の父である興房の代には、筆頭家老としての地位を磐石のものとし、大内家の
隆盛を支えることになります。

 そんな、勇将の下に生まれた晴賢は、幼い頃美男としてよく知られていたみたいで、主君・大内 義隆の寵童として仕えるほどの美男子でした。元服してからの名であ
る、隆房は義隆の一字を受けたものであることからも想像が出来ると思います。

 

 

天文八年(1539年)、父が病没したために家督を僅か十九歳で継ぐことになりますが、彼もまた父に劣らず武勇・武略に秀でた人物で『西国一の侍大将』と呼ばれ
る事になる。虎の子は、虎の子という名に恥じない武将に育っていきます。

 翌年、出雲の尼子 晴久が、安芸国を侵略し、毛利 元就の居城・吉田郡山城を包囲した際、(毛利家は当時、大内家に従属していた一大名でした。)主君である・義隆が、援軍を渋る中、大内家の信義と元就の有能さを切々と説き、援軍一万を率い、元就とともに尼子軍を粉砕する活躍をします。

 




陶 晴賢の尼子攻め

この勝利により、今まで尼子方に付いていた、国人領主たちが大内家に組するようになってきます。さらに、『西国宰相』とまで呼ばれた、尼子中興の祖であ
る尼子 経久の病死も重なり、尼子討伐の機運も高まりをみせてくると晴賢も強く尼子攻めを勧め、主君・義隆をはじめ元就らの国人領主たち、総数五
万にも及ぶ大軍を率い、出雲に侵入し尼子家の居城・月山富田城を包囲します。これを、第一次月山富田城攻めといいます。

 

しかし、経久が死去したとはいえ尼子の底力は侮りがたく、新宮党らの頑強な抵抗と大内軍の内部崩壊・三刀屋 久扶、猛将・本城 常光らの裏切りにより、大
敗することになるのです。義隆の養嗣子・大内 晴持を失い、元就も命からがら退却するほどでした。

 

晴賢は、義隆に共に船で脱出をするように言われますが、それを断り、陸路殿として撤退することになります。自身も、魚の腸をすするなど悲惨な退却戦でしたが
兵士たちの信頼を得ることにもなるのです。

 

その後、主君・大内 義隆は、軍事面に興味を示さなくなり、文化へ傾倒していくことになります。京都より公家を招き、また町並みを京風にし、のち宣教師
フランシスコ・ザビエルに布教を許可するなど、文化面で多大な功績を残すことになり、当時、山口は『西の京』とまで呼ばれるほどでした。

このため、文治派である相良 武任の台頭と武断派である晴賢との間に、溝ができる要因になります。

 




陶 晴賢の下剋上

文化に傾倒する主君に対して、晴賢は冷泉 隆豊らとともに何度も諫言をし諌めようとしましたが、その言葉は聞き入れられることはなく、逆に煙たい存在とし
て遠ざけるようになりました。

 

遂には、天文十九年(1550年)には、晴賢謀反の噂が流れる事態にまで発展し、弁明をする始末でした。疑いは、晴れましたがそれ以後は山口を離れ、義隆に
対して諫言をすることはなくなるのでした。

 

翌天文二十年(1551年)、晴賢は謀反を決意し、豊後・大友氏、毛利氏に根回しをし、近習まで取り込み情報を集め決起します。不意を衝かれた義隆はなんと
か脱出を図りますが、九州への脱出は失敗し大寧寺で自害することになります。

不運なことに、義隆の嫡男・奇童丸も亡くなってしまい、大友 宗麟の弟・晴英を当主に迎え義長と名乗らせ、自身も『晴』の字を拝領し晴賢と名乗ることになります。晴賢にとっては計算が狂った結果でした。

しかし、晴賢が大内家の統制を強める政策を行うが、反発する勢力が出てきます。天文二十四年(1554年)義隆の妹を妻とする石見の吉見 正頼でした。下
克上の世の中とはいえ、主家殺しに対してイメージは悪いもの。一人叛旗を翻すものが出ると、連鎖反応を起こすのは晴賢自身がよく分かっていました。

 




陶 晴賢と厳島の戦いと最後

すぐさま、正頼討伐の兵を挙げ石見に侵攻しますが、なかなか頑強な抵抗にあいます。そんな時、安芸の毛利 元就の挙兵の報が届きます。元就の動きは早
く陶方の諸城を次々に攻略し、晴賢の侵攻を待ち構えていました。

激怒した晴賢は、正頼を降すと対毛利戦の準備を整えます。が、しかし、元就の方が一枚も二枚も上手でした。陶の猛将・江良 房栄が謀略により晴賢自身で
、誅殺することになり、(本当に、内通していた説もあります。)厳島にまんまと誘導されてしまうのです。

 

晴賢の妻や家臣・弘中 隆兼が厳島へ陶軍を誘う罠だということにも耳をかさず二万数千の軍勢と共に上陸し、囮城である宮尾城に攻撃を開始します。晴賢は、
油断したのでしょうか?それとも、だれも信用出来なくなっていたのでしょうか?

 

風雨の中、厳島に上陸した毛利本隊は、晴賢の本陣に突撃を開始します。不意を衝かれた陶軍は、大混乱に陥ります。ちなみに、この戦闘での毛利軍の討ち取った
首級は、四千七百にも及んだそうです。まさに、圧倒的な勝利だったのです。

 

晴賢も、船で脱出を図りますが、沖では毛利水軍が陶水軍を追い払い万事休す。最後は、自刃してその一生を終えるのでした。享年三十五歳。

時世の句

『何ををしみ 何をうらみに 元よりも

この有様の 定まれる身に 』

事ここに至って何を惜しみ何を恨むだろうか、この様になったのは全てこの身の
定めであったのであろう。




まとめ

いかがだったでしょうか?少し最後が寂しい感じを受けませんでしたか。なんとなく謀反人の悪いイメージではない、清々しい人柄が想像してしまいました。本来
は、謀反を起こすような人ではなかったのかもしれませんが、運命としかいえないような不運が重なりこのようなけかになったのでしょう。














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